MOTOKA 第9章




「いってきまーす」
「いってらっしゃい、優里さんのお母様にくれぐれもよろしくね、あとで電話しておくけれど」
「うん、わかった、じゃーね!」
 玄関の扉を閉めると素香は少しだけ目を細めて空を見上げた。
「うわー、いい天気」
 軽やかな足取りで玄関のポーチから門を抜け、家の前の通りへ出る。今日も朝からきれいに晴れている。木の上から小鳥達の元気なさえずりが聞こえる。
 ルンルンとした気持ちで駅までの道のりを歩きながら素香は思わず今日の事を考える、これから優里と待ち合わせをして、優里の住む町の私鉄沿線にある大きな市営プールへ行く事になっている。
 こんなにいい天気じゃあけっこう焼けるだろうなあ、プールに着いたら日焼け止め塗らなくちゃ、こないだ優里と一緒に買ったビキニ似合うかなあ、私にしては思いきって派手な色のを買っちゃったからなあ、、でも優里がぜったいに似合うって言ってくれたから大丈夫かな。
 ちょっとワクワクする、優里もきっとこのあいだ買った水色のビキニだろう。
 夜の花火大会も楽しみだなあ、お母さんが日本の花火は世界一綺麗だって言ってたし、そういえば花火を見るのも久しぶりだ、確か5年くらい前の夏休みにニースの海岸沿いで見た花火以来だ。
 花火大会のあとは優里の家に泊まることになっている。
 素香はこの間の夜の事を思い出して、歩きながら思わず顔を赤らめてしまう。
 優里に突然唇を奪われてしまった、初めてのキスだった、わけもわからず体中がゾクゾクした。
(まったく優里ったら、、、もしかしたら今夜も襲われちゃうのかなあ、、なんて、、)

 プールのある駅で降りて改札を抜けると、優里が手を振って待っていた。
「おはよー」
「おはよー、いい天気だねえー」
 優里と並んでプールへの道を歩く。まわりは浮き輪を持った家族連れや、ビーチサンダルの若者達でいっぱいだ。
 まだ開園前のプールの入り口には、もうすでに長い列が出来ていた。
 入場して更衣室に入ると、ロッカーの前で優里はさっそく服を脱ぎはじめた。Tシャツの下にはもう水色のビキニを着けていた。
「えへへ、めんどくさいから着てきちゃった」
「えー、それかわいいー、すごく似合ってるよー、ちょっと待っててね、わたしもすぐに着替えるから」
 素香はゴソゴソとバッグの中から水着を取り出した。
 着替えを終えると二人で更衣室から表に出た。あまりの眩しさに一瞬目が眩んでしまう。真夏の明るい日ざしの下で、優里の水色のビキニと素香のピンクのビキニは思ったよりずっと鮮やかな色だった。
「きゃー、素香のもすごーいきれいなピンク色だね」
「ほんとー?ちょっと派手すぎない?」
「ぜんぜんそんなことないよ、めちゃくちゃ似合ってるよー、素香のビキニ姿を目の前で見れるなんて、わたしもうクラクラしちゃう〜」
「優里ったら朝からなに言ってんのよー、もう」
 二人はプールサイドの芝生に持ってきたシートを敷くと、腰をおろした。
 バッグから日焼け止めのクリームを出して顔や腕に塗り始めると、優里が「背中、塗ってあげるよ」と言うので「うん、お願い」と言って塗ってもらう事にした。
 うつ伏せに寝転んで前に組んだ腕の上に顔をのせて目を閉じると、優里の手が肩の後ろの方からゆっくりとクリームをすり込んでくれる。
 肩甲骨から背中のまん中に向かって徐々に降りてくる優里の手がとっても気持ちいい。プールから聞こえる水の音と誰かの笑い声にまじって、時おり風に乗って塩素の香りを含んだプールの匂いがする。風がやむと鼻先からは朝の芝生の青い匂いが漂ってくる。
 優里の手が背中の下の方に触れた時、ぞくっとして思わず全身がピクッと動いてしまった。
「あっ、素香、ここきもちいいのー?」
「えっ、、ちがう、くすぐったいよ、、、」
 もう一度優里の手が背中の同じところをそっと撫でた時、またしてもピクッと小さくのけぞってしまった。
「素香、背中が感じるんだー」
「やだもう優里ったらー、わざとしないでよー」
「ははは、それにしても素香ってホントいいカラダしてるねー」
「もー、まったくー、優里の言い方ってなんかエッチなオジサンみたいー、、、、」

 優里に日焼け止めのクリームを塗ってもらった素香は、今度は優里にも塗ってあげる事にした。
 うつ伏せになった優里の背中にゆっくりとクリームを塗っていく。チューブから右手の先に少しづつ白いクリームを付けて、首筋から肩甲骨、背骨にそって優里の背中の温もりを感じながら丁寧に薄くクリームを延ばしていく。
(優里だってすごくいいプロポーションをしてるじゃない、胸はたぶんわたしより少し大きいし、健康的にくびれたウエストからヒップへ続くカーブなんて女のわたしから見ても惚れ惚れしちゃうな)
 素香はこんな風に直接人の肌に触れるのは初めてだけど、何だかとっても優しい気持ちになってきた。背中の一番下のあたりにクリームを塗りながら、思わずそのすぐ下の水色の水着に包まれた優里の白くて可愛いおしりを思い出して想像してしまう。
 ジリジリと強い太陽の下で一瞬ふわっと気持のいい風が吹いてきて、素香はゆっくりと息を吸い込んだ。

 しばらくの間、水につかって戯れていた二人がプールからあがると、ちょうど昼前だった。
「ねえねえ、そろそろお昼にしようか」
 と優里がタオルで体を拭きながら聞いてきた。かれこれ2時間近く泳いだりしてプールに浸っていたので、もうおなかはペコペコだ。
「うん、そーしよう、おなかすいたし、喉もかわいたね」
「あそこで何か買ってこよう」
「うん」
 二人は売店に行って昼食を調達することにした。
 売店の壁には「焼きそば」「カレーライス」「タコ焼き」「おこのみ焼き」「うどん」「ラーメン」「フランクフルト」「かき氷」等のメニューが貼ってある。
「ねえねえ、『タコ焼き』って何?」
 素香は『タコ焼き』という物を食べたことがなかった。タコが焼いてあるのだろうか。何年か前にスペインで、炭火で焼いた蛸のぶつ切りにオリーブオイルとレモン汁をかけた料理を食べた事があったのを思い出した。
 タコを食べたのはその時が初めてだったけど、もともとギリシャの海岸沿いの名物料理だというそれは、シンプルでタコの食感も楽しめて、とっても美味しかった。
 結局売店で、たこ焼きとフランクフルトと焼きそばと冷たい飲み物を買って、プールサイドの芝の上に敷いたマットの上で食べることにした。 
「うわー、これおいしいねえー、タコが中に入ってるんだー」
 丸いボール状の物の上に茶色いソースとかつお節がトッピングしてある『タコ焼き』を食べるのは初めてだったけど、とっても美味しいかった。
 ソース焼きそばも素香は生まれて初めて口にする食べ物だった。チャイニーズレストランで食べる焼そばとはまるで別の食べ物だ。
「えー、この焼きそばも美味しいー、この上にかかってる緑色のなーに?」
「青のりっていうのよ、いい香りでしょ?」
「うん、いい香り」
「それにしても素香っていつもホントーにおいしそうに食べるねえー」
「だって美味しいんだもん」
「見てるほうまで食欲がわいてくるよ、ホント」
 優里が焼そばを食べながら嬉しそうにこっちを見てる。焼そばを食べ終えると、もう少しタコ焼きが食べたくなった。
「ねえねえ、わたしタコ焼きもうひとつ買ってくる」

 昼食を終えてプールに入ってひと泳ぎして、二人でマットの上に横になった。
 午前中は雲ひとつない青空だったけど、空には大きな白い雲がいくつかゆっくりと流れていて、時折眩しい太陽をさえぎってくれる。
「ねえー素香、キフジンノボウコウって知ってる?」
「えー、何それ、キフジンノボウコウ、、、どういう事?」
「キフジンってゆうのは貴族とかの『貴婦人』のことよ」
「ああ、うんうん」
「それでボウコウってゆうのはおしっこを溜める『膀胱』のこと」
「ふーん、『貴婦人の膀胱』、、うーん、聞いたことないなあ、、、」
「実はさあ、あれからずっとわたしおしっこをガマンする練習してるんだ」
「えっ、なにそれー、、」
「うん、いろいろ調べたらさあ、膀胱って訓練できるんだって」
「あっ、そういえばこのまえ優里の家で見たインターネットになんかそんな事が書いてあったね」
「そうなのよ、それでさあ毎日午前中はコーヒーとお水をたくさん飲んで、できるだけガマンする練習してんのよー」
「へえー、ほんとにー」
「うん、、、素香みたいに沢山ガマン出来た方がいろいろと困らないでしょ、、わたし人よりおトイレ近いみたいだし、、、ねえねえ、素香は子供の頃おしっこをガマンする訓練みたいなのしてたのー?」
「えっ、そんなのしてないよー。でも、とにかく女の子は人前でお手洗いに行ってはいけませんよ、ってお母さんからいつも言われてたから自然に人前ではおトイレ我慢してたかなあ、、」
「ふーん、やっぱりそーなのかなあ、、、わたしさあ、一昨日の夜、真面目に膀胱のことを調べてたんだけど、そこに『貴婦人の膀胱』っていうのが載ってたのよ」
「うん、、、」
「あるお医者さんのサイトなんだけどさあ、昔ヨーロッパではおトイレに行かない女性ほど高貴であるってされてたんだって」
「ふーん」
「それでね、良家にうまれた女の子は小さい頃からおしっこを我慢する訓練をされていて、大人になると昼間は一日一回しかおトイレに行かなかったんだって」
「えー、ほんとにー、、、」
「うん、それでそういう人達はふだん1リットル以上おしっこを我慢してたって推測されてるんだって書いてあった。昔からそういう人達の膀胱の事を『貴婦人の膀胱』って言うんだって」
「へえー、なんかすごいねー、そーいえばフランスのベルサイユ宮殿にはおトイレがなかったってゆーのは有名な話だもんね」
「えーー、そーなんだー、、知らなかった、、、みんなどーしてたんだろーー、、、」
「ほんとだよねぇー、どーしてたんだろう、、」
「それでさあ、わたし、素香って『貴婦人の膀胱』なんだ、って思っちゃった」
「えー、何でー、」
「だってさあ、素香は小さい時からおしっこガマンするようにしつけられてたし、この前計ったら900cc以上あったじゃない」
「ははは、でもわたし別に貴婦人じゃないよ」

 午後になってから空には白い雲が多くなってきた。真っ青な空に大きな真っ白い雲がゆっくりと流れている。
 たぶん気温は30度をゆうに超えているんだろうけど、雲に隠れて日が陰っている時間が多くなって、風がちょうどいい感じにゆったりと吹いて来ている。
 午前中けっこう泳いだせいで、ふだん使っていなかった腕と足の筋肉のだるさが、なぜか心地よく感じられる。
 お昼に初めてたべた『タコ焼き』が美味しくって、おかわりをしてしまったのでお腹もいい感じで、うつらうつらしてきた。
 目を閉じていると、時折雲のあいだから太陽が覗くのだろう、まぶたの中がオレンジ色に変わる。
 隣にいる優里もさっきから何にも話しかけてこない。眠ってしまったのだろうか。
 プールの水飛沫の音のあいだから見知らぬ人達の笑い声が遠くで聞こえる。
 知らないうちに素香も眠ってしまった。

 夕方、プールを出た二人は電車に乗って一旦優里の家に戻った。
 居間のテーブルでケーキと紅茶をごちそうになっていると、優里の母親が浴衣を持って現れた。
「素香ちゃん、これ着てみて。優里のだけどサイズはたぶんピッタリよ」
「わあー、すてき、わたし浴衣を着るの生まれてはじめてなんです!」
 優里の部屋にあがって二人で浴衣に着替えた。優里の前で服を脱いで下着だけになるのは何故かもう恥ずかしくなかった。
 優里が背中で帯を結んでくれている間、なんだか全身がムズムズして妙な気分になってきた。
(わたしってやっぱり背中が敏感なのかなあ、、、)
 初めての浴衣は不思議な感覚だった。こんなに薄い布一枚をたった一本の帯で止めただけでちょっと無防備な気がしたけど、かえって気持ちがひき締って自然といつもより少し女の子らしく、おしとやかにならなければ、という気分になってしまう。
 居間に戻って優里の母親に帯を少し直してもらい、お弁当と水筒を持って二人は家を出た。
「いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい、気をつけてね」

 花火大会が行われる多摩川の河川敷までは優里の家から歩いて15分くらいの距離だ。
 夕暮れの道を浴衣を着て、お弁当を持って歩いて行く。
 午前中の暑さがうそのように気持ちのいい風が浴衣の裾をなびかせる。
 とってもワクワクした気分で、気がついたら二人で仲良く手をつないで歩いていた。

 河川敷に近付くと、さすがに人が増えてきた。家族連れや若者達のグループ、カップルや年輩の人たちのグループ。二人はシートを敷く場所を見つけて、並んで腰を降ろした。さっきまで綺麗な夕焼けだった西の空はだんだん暮れかかってきていて、川下の方から吹いてくる風が頬をやさしく撫でる。
「まだ始まるまで1時間以上あるのに、すごい人だねえ、、、」
 素香はまわりを見渡して言った。
「うん、そーなのよ。毎年何万人っていう人が集まるのよ」
「へえー、ほんとにー、すごーい」
 素香は、そんなにすごい花火がこれから目の前で見られるんだと思うと、花火の始まりが待ち遠しかった。
「ねえねえ、お弁当食べよー」
「うん」
 お弁当箱を開くと、お稲荷さんと太巻き、それに卵焼きと空揚げ、きゅうりの漬け物がきれいに並んでいた。
「わー、おいしそー、わたしお稲荷さん大好きー、食べるの何年ぶりかなあー」
「えへへ、まえに素香、お稲荷さん何度か食べた事があって好きだって言ってたでしょ、それでお母さんにリクエストしたんだ」
「えー、うれしいー、ありがとー」
 水筒からカップに麦茶を注ぐと、ひと口飲んでからお稲荷さんを口に運んだ。
「おいしいーー」

 お弁当を食べ終えてから、優里が日本の花火大会がいかに夏の国民的行事なのかを説明してくれた。毎年日本中で大きな花火大会が行われていて、中でも歴史のある東京の隅田川の花火大会は毎年何十万人の人出で、テレビでも生中継をする程のイベントだそうだ。
「始まる前にわたしちょっとおトイレ行ってくるね」
 と言って優里がトイレに立った。回りを見渡すと、もうびっしりと人で埋まっている。片手で浴衣の裾を持ちながら、座っている人達の間を右へ左へよけて歩いて行く優里のずっと先の方に、仮設トイレがずらっと並んでいるのが小さく見えた。
 しばらくして優里が戻って来た。
「ああー、遠かった」
「すごい人だもんね」
「うん、でも結構きれいなトイレだったよ、まだ紙もちゃんとあったし」
「そーいえば、優里、今日はあんまりおトイレ行ってないねえ」
「あっ、そうだねえ、昼間は暑くてずっと汗かいてたし」
「訓練の成果が出てきたんじゃない、、、なんて」
「はは、そーだといいけど、、でも今日は体の中の水分が全部汗で出ちゃったんじゃないかな、、」
「ねえ、優里、今ので今日何回目?」
「えー、、、朝と、お昼を買う前と、プール出る時と、、、4回目かなあ」
「いつもより少ないんじゃない?」
「うん、そーいえばぜんぜん少ない、、でも汗で出ちゃってるんだよ、きっと、、だって今日のおしっこなんか色濃いし、、」
「あっ、そうそう、わたしもあるよ、そーゆう濃い時。それで時々ツーンって臭う時あるよねえ」
「うんうん、わかるわかる。こないだみたいに飲み物をたくさん飲んだ後のおしっこは薄いんだね、きっと。素香のおしっこ全然匂いしなかったもん」
「やだ〜、優里ったら匂い嗅いだのー?」
「嗅いだわけじゃないんだけど、近くで息すると匂うじゃない」
「もー、変な人」
「ねえねえ、あと風邪薬やビタミン剤なんか飲んだあとってすごく黄色くない?」
「そうそう、すごい黄色い」
 実はこの時素香は少しトイレに行きたかった。でも、まわりから丸見えの仮設トイレに並んで入るのもちょっと気が引ける。
 3時過ぎにプールを出る時、シャワーを浴びる前に優里といっしょに更衣室のトイレに行った。それからまだ4時間も経ってないので、少しぐらいおトイレに行きたくても自分の貯水地まだ大丈夫なはずだ。
 とりあえず、花火大会が終わってからおトイレに行こう。

 その時ズドーン、ズドーンと大きな音と共に最初の花火が何発か続けて上がって、まわりから「ウオー」という歓声と共に拍手が鳴った。


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