江戸の女性とおしっこ




『江戸の女たちのトイレ』(渡辺信一郎 著 TOTO BOOKS)という本を読みました。

 江戸時代というと、人によっては遥か昔の世界のように感じるかもしれませんが、江戸の後期は、今からたかだか百数十年前にすぎないのです。
 当時の庶民の生活を詠んだ「川柳」の文献を元に、江戸の女性達のトイレ事情から、その日常の生活風景が見えて来て、とても面白い一冊です。その一部を紹介させていただこうと思います。
 江戸の女言葉で、おしっこの事を「しし」と言ったそうです。「しーしー」という音からきているのでしょうか???(語源についての記述は、この本にはありませんでした)「CC日記」は、江戸時代だったら、さしずめ「しし日記」になるのでしょうか?なはは。
 当時も、男性はトイレがない場合でも簡単に出来ましたが、女性はそれ相応の場所でないと、なかなかおしっこは出来なかったようです。
 そんな訳で、女性が外出する場合、結髪、化粧、衣服、持ち物などの準備がある他、厠に行って小用を済ませておくことも、欠かせない支度の一つだったそうです。外出先でも、どこでおしっこが出来るか、絶えず気をつかっていたそうです。

 江戸の女性達の生活は、想像もつかないほど、しきたりと習慣とに縛られ、それはそれは大変だったようです。結髪、化粧、お歯黒、衣装、立ち居振るまいには、驚くほど制約が多かったらしいです。その中で、元気に逞しく生き抜いてきた女性達のエネルギーは、さぞすごかったことでしょう。
 当時は武家屋敷や裕福な商家などにはトイレがありましたが、多くの庶民の住む長家には、家にトイレはなく、10軒につき2つくらいの割合での、共同トイレでした。


薄い壁一枚で、ふたつ並んでいます。

 扉は下半分しかなく、近くに行けば、しゃがんでいる姿は見えてしまいます。もちろん男女共用でした。しかも、共同の井戸端にあったので、女性達はトイレに関しても、なかなか苦労していたようです。


○当時の川柳より、おしっこの話○

「萱(かや)の実と 違い蜆(しじみ)の 小便は」

(「萱の実」というのは男児の性器の事を表していて、「蜆」というのは、女児の性器のこと。男性とちがい、女性はどこでもおしっこを出来るわけではないの意)

「急ぐ道 小便までも 言い合わせ」

(女性同士の外出の際「さあ、トイレは大丈夫かい?」と、必ず確認しあうのが常だった)

「なりったけ 嫁小便を 細くする」

(嫁いだばかりの花嫁にとっては、おしっこの音が聞こえないように、細かく気を遣わなければならなかった)

「出合茶屋(であいぢゃや) 小便に降り ししに降り」

(「出合茶屋」とは、今のラブホテルにあたるもので、客室は2階にあったが、共同トイレは1階にあった。「小便」で男を表し「しし」で女を表している。一緒に降りると人目に立つので、こっそりと交互に行く状況を表している)

「娘シイ 年増のはジュウ 乳母はザア」

(娘と年増女と広陰といわれる乳母の、おしっこの音の比較)

 そういえば、有名な戯れ言葉に「女の小便、徳川御三家」というのがあります。 「娘はキシューッ(紀州家)、年増はビシュウーッ(尾州家)、老婆はミトミトミト(水戸家)」だそうです、、、。

 当時も女性はおしっこの後で拭く習慣は、一部ではあったそうですが、今と違って下着を穿いてなかったので、別に拭かなくても下着が汚れるということはなかったのです。拭く場合、紙は高価なものであったため、ゴワゴワの安い紙を、よ〜く揉んでから使ったそうです。しかし、田舎では自然乾燥だったことも多かったようです。

○京女の立ちション○

 江戸時代中期の戯作家、曲亭馬琴(ばきん)の『羇旅漫録(きりょまんろく)』という紀行文に、

「京の家々、厠の前に小便擔桶(たご)ありて、女もそれに小便する。故に、富家の女房も小便はことごとく立て居てするなり。但、良賤とも紙を用ず。妓女ばかり、ふところ紙をもちて便所へゆくなり。月々六斎ほどづつこの小便桶を汲みに来るなり。或いは供二三人連れたる女、道ばたの小便たごへ、立ちながら尻の方をむけて、小便するに、はじらいる色なく、笑ふ人なし」

とあります。

 当時のおしっこやうんちは、農作物の貴重な肥料として、すべて再利用されていました。わざわざトイレの前に、おしっこ専用の便器をつけたのは、再利用のための分別だったようです。旅人達にも、そこらへんで立ちションするなら、もったいないからここにして!といった感じで、街中に設置してあったのでしょうか?そう考えると、京都の女性達は、地球を守るエコロジー活動に、いち早く積極的に参加していたということになりますね。
 江戸の町では、女性の立ち小便はほとんど無かったそうで、曲亭馬琴は驚嘆の目で記録していますが、お尻を突き出して後ろ向きにおしっこをするのは、地方ではかなり行われていたそうです。
 また、江戸時代後期の国学者、小山田与清(ともきよ)が著した『松屋筆記』には、

「婦女の立ち小便は田舎に限らず、京大阪にもおほかり」

とあり、都市部でも関西地方では、こんな風習が一般的だったことがわかります。
 さらに、江戸後期の文人、太田南畝(なんぽ)の『半日閑話』に、

「いなかにまさるきたなさは のきをならぶる町中で おいへさんでもいとさんでも くるりとまくって立ち小便」
(「おへいさん」は奥様、「いとさん」はお嬢さんの意味)とあり、また、

「京女 立ってたれるが 少し疵(きず)」

という句も残っています。立ち振るまいや容姿が優美であった京女も、立っておしっこするのがタマにキズだったという事です。
 その他にも、

「富士額(ふじびたい) 担桶(たご)へまたがる 京の嫁」

(富士額は美女の形容。こんな美人のお嫁さんでも、京都では道端にある担桶をまたいで、おしっこをするということ)

「美しい 娘手水(ちょうず)で ぶっこわし」

(綺麗な娘だと思っていたら、路傍で立ちションをしていたので、ちょっと艶消しだった、ということ)
といった句も残っています。

 京の都の美女達は、とってもおおらかだったんですね!

○野掛け、お花見とトイレ○

 春のピクニックの事を「野掛け」といったそうです。外出して楽しむ機会が少なかった当時の女性達は、野掛けやお花見を特に楽しみにしていたそうです。照る照る坊主を作って、衣装の準備をして、お弁当を作って、お化粧をして、浮き浮きと江戸近郊まで出かけたのだそうです。

「野掛け道 嫁難渋(なんじゅう)な 事が出来」

(ゆったりと野掛けを楽しんでいると、尿意を催して困っている)

「白鷺(しらさぎ)も 貧乏ゆすり して尋ね」

(「白鷺」は白い角隠しをしている御殿女中の事。おしっこを我慢するあまり、貧乏ゆすりをしながら、トイレのありそうな農家を捜しまわる)

「ごくごくの つまり女の 野雪隠(せっちん)」

(限界ギリギリで、もう我慢がしきれなくなると、女性も仕方なく野雪隠(野ション)に及ぶ)

「小便の 矢おもてに立つ 供女中」

(お供のいる「姫君」などの場合は、適当な場所を探して、供の者達が目隠しのために立ち並んで、姫君を囲むようにして外部からの視野を断つ)

「花の幕 ひそひそ揉める ししの事」

(お花見の時は、桜の木の下に幔幕(まんまく)を張り巡らせ、琴を弾いたり和歌を詠んだりして、ご馳走を食べて過ごすが、しし(おしっこ)をしたくなると「あなた、トイレどぉ?」「うん、わたしも」等と、ひそひそと相談していた)

○芝居小屋のトイレ○

 芝居(歌舞伎)の見物は、当時の女性達にとって最高の娯楽で、その熱狂ぶりは想像を絶するものがあったそうです。しかし、トイレの個数はそんなに多くなかったようで、皆急いで用を足していたらしいです。

「幕の間は 夕立のする 小便所」

(幕間(幕と幕の間の休憩時間)は、女性達がトイレに殺到して、激しくおしっこをした)

「うまい幕 茶屋の後架(こうか)へ ぞろぞろ来」

(「うまい幕」とはラブシーンの事で、ラブシーンが終ったあとは、混雑している芝居小屋のトイレを避けて、近くの茶屋の後架(トイレ)にも行列が出来た)

○船遊山(ふなゆさん)とトイレ○

 夏のレジャーの最大の楽しみは、船による納涼です。隅田川の船遊山が盛んで、5月28日の両国の川開きを皮切りに、連日連夜、屋形船や屋根船(屋形船の簡便なもの)が往来していたそうです。船には紫の幕を張り巡らし、緋色の毛氈を敷き延べ、屋根には煌々と提灯を掛け並べ、歌舞音曲を楽しみ、魚料理に舌鼓を打って、楽しんだようです。

「今ン日は(こんにちは) 船へと芸子(げいこ) 茶を控え」

(船に呼ばれる芸者は「今日は船だから、お茶は飲まないよ」と、水分を控えていた)

 豪華な船遊山には、トイレ専用の小舟を曳航していたそうですが、普通の船にはトイレはなかったので、宴の途中でトイレに行きたくならないようにとの配慮でしょう。男性は竹筒を使って、船べりからおしっこしてたそうです。

「焙烙(ほうろく)を 溲瓶(しびん)に使う 女中船」

(女性は、どうしようもなくなると、焙烙という豆などを炒るのに使う素焼きの土器を、溲瓶代わりにした)

 乗り合い船などでも、焙烙は女性用の尿器として使われていたそうですが、揺れる船の上で焙烙を上手に使うのも、大変だったようです。

「焙烙へ たれると船頭 こらえかね」

(船端で、着物をまくりあげ、白いお尻をだしておしっこをしている女性を見て、船頭が興奮してしまう)

「雪隠(せっちん)に 女中一艘(いっそう) 積んでくる」

(「雪隠」はトイレの事。トイレに行きたいという女性が多くなると、焙烙など使わずに、船ごと岸辺に寄せる)

 当時の隅田川では、墨堤(ぼくてい)東岸の三囲(みめぐり)神社というところが名所だったそうで、ここにトイレ用に船をよく付けたそうです。

「三囲(みめぐり)を 溜め小便の 揚げ場にし」
「三囲(みめぐり)は ついへな顔の 揚げ場にし」

(「ついへ」は、消耗する、疲れきる、という意味で、おしっこを我慢しつづけて、困った女性の表情を意味している)

 以上、紹介したのは、ほんの一部です。他にも面白い話が沢山載っていました。機会があったら、ぜひ手にとってみてください。
 トイレ事情があんまりよくなかった江戸時代では、もしかしたら今よりも、おしがまが身近にあったのかもしれませんね。  


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