春休み、伊豆の別荘で 第1話




 さて、東京の屋敷に亜矢子が訪れてから3日後の午前10時すぎである。
 場所は静岡県の伊豆半島、伊豆高原にある 主人の別荘だ。昨日の夜おそく、主人と使用人は東京から車で3時間ほどかけて、ここ伊豆高原にある別荘にやって来たのだった。
 ヨーロッパ調の明るい部屋のダイニングテーブルでは、主人と使用人が2人で遅い朝食を食べている。
 朝食といえどもとても豪華で、まるでホテルのバイキングのメニューのようである。
 使用人である初老の紳士は、もともと東京の一流ホテルのレストランの料理長をしていた。食通なこの別荘の主人は、そのレストランの常連客だったのである。
 窓の外は、新緑の庭を穏やかな春の日差しが包み込む。

 今日は東京から、主人の姪っ子が友人2人を連れてこの別荘に遊びに来る予定になっている。
 姪の千香は、先日東京の屋敷に訪れた亜矢子と同じく、この春東京の女子校を卒業したばかりである。
 高校時代の仲の良かった友人3人での卒業旅行というわけだ。
 東伊豆を観光した後、夕方この叔父の別荘に来て、夜は使用人の作る豪華なフランス料理で卒業のお祝いをして、ここに泊まっていく予定になっている。
 叔父の開くホームパーティーで、何度も使用人の作った素晴らしく美味しい料理を味わっている千香は、昨日の電話で
「こんな形であたし達だけのために超一流の料理人のひとが料理を作ってくれるなんて夢みたい。叔父さん、ほんとにどうもありがとう!明日はみんなすんごい楽しみにしてるんだよ!」と無邪気に喜んでいた。
 今日は東京から電車で伊豆高原まで来て、城ヶ崎やサボテン公園を観光してからここに来るらしい。
 おそい朝食を終えた主人と使用人は、昼すぎに近くの漁港まで食材の買い出しに行った。新鮮な伊豆の魚介類と野菜を買って別荘に戻ると、さっそく料理の準備にとりかかる。
 この時ばかりは、料理好きでグルメの主人は、元一流レストランのシェフである使用人の助手になる。
 主人にとっては、こうやって自分の憧れであるプロの料理人と一緒に料理を作れること自体が、最高の幸せなのだ。
 今日のメニューは、あたたかい伊豆の近海で捕れた魚貝類をメインにした南仏料理だ。
 この別荘は1階に20畳ほどのパーティールーム兼リビングがある。廊下を隔てて立派なプロ仕様の厨房があって、2階には主人の寝室と書斎のほかに宿泊用のゲストルームが4部屋ほどある。
 1階の厨房からは、魚貝類とハーブとトマトの何ともいえないいい香りが漂っている。

*   *   *

 千香は高校時代仲のよかった真夜と綾規恵と一緒に、伊豆高原の駅から叔父の別荘への道を歩いている。
 今朝早くに東京から電車に乗って伊豆に着いた3人は、駅前の観光案内所でタクシーを頼むと、半日の観光案内をお願いした。東伊豆の観光スポットを一通りまわって夕方5時前に駅前に戻ると、みやげ店をすこし覗いた後、別荘へ向かっているのだ。駅から別荘までは歩いて7〜8分の距離である。千香は幼いころから何度も家族と一緒に遊びに来ているので、このあたりのことは大体わかっている。家族以外の友人と一緒にここに来るのは、よく考えると初めてであった。
 今日は本当にいい天気の一日だった。さすがに東京よりも気温が随分高く、昼間は半袖でもいいくらいの暖かさだった。
「そういえば叔父さんが、もう千香たちも高校を卒業して大人の仲間入りだからって、お祝いになんとかってゆう有名なシャンパンやおいしいワインとかいろいろ持ってきてくれるって言ってたんだよ!」
「えー、うっそー、やったじゃん」
「千香の叔父さんってグルメなんでしょ」
「そうそう、グルメが高じて、奥様が亡くなられてから行き着けだったレストランの料理長さんを家に住まわせて、2人で一緒に暮らしてるんだって。なんかその料理長さんも奥様に先立たれたらしくって」
「今日はその人もいっしょなんでしょ?」
「そうそう、もう最高ってかんじ!」
 3人は息をはずませて楽しそうに話ながら別荘へと向かう。

*   *   *

 ピンポーン。玄関の呼鈴が鳴った。
「おっ、千香たち着いたな」
 主人は玄関に向かうと、木製の重厚なつくりの扉を開けた。
「こんにちはー」
「おお、ようこそいらっしゃい。千香ちゃん久しぶりだねえ、ずいぶん大人っぽくなって」
 千香に会うのは2年ぶりである。
「私の友人の真夜と綾規恵でーす」
「はじめまして。今日はお世話になります」真夜は少しかしこまって言うと、お辞儀をした。綾規恵もそれにあわせてお辞儀をする。
「遠いところをようこそいらっしゃいました。今日はどうぞゆっくりしていってくださいね、まあどうぞどうぞ」
 3人は靴を脱ぐと広々とした玄関にあがりスリッパを履く。
 主人は「まずは荷物を部屋の方にどうぞ」と言うと、ゆっくりと階段をのぼり3人を2階へ案内する。
 玄関の床から廊下、階段まで白い大理石で出来ている。
「すごいですねえ。まるで外国の映画にでてくる高級リゾートホテルみたい」
 とキョロキョロとまわりを見渡しまがら真夜が言う。
「有難うございます。今晩はどうかごゆっくりとおくつろぎ下さい。皆様のお泊まりいただくお部屋は、こちらになります」
 と3人を部屋に案内した。
「じゃあ千香ちゃん、荷物を置いたらてきとうに降りてきてね。もう料理の準備も出来てるから」
 と言って、叔父は階段を降りて行った。

 部屋の中はシングルベッドが3つあって、窓の外には夕暮れどきの伊豆の海が広がっている。
「わあー、素敵」「ほんとに!すっごーい!なんか幸せ!」
 真夜と綾規恵は窓際まで歩くと外の景色をうっとりと眺める。

 荷物を部屋に置くと、3人は階段を降りて1階のパーティールームへ向かう。廊下には厨房からか、すでにおいしそうな匂いが漂っている。
「わー、いいにおい!」「千香、今日はほんとアリガトウね」

 扉を開けて部屋に入ると、中央の大きなテーブルにはすでに並べられた御馳走がシャンデリアに照らされていた。
 壁には何点かの洋画が飾られている。
「ねえ、これってシャガール?」と綾規恵が千香に聞いた。
「そうそう、綾規恵よくわかるねえ。叔父さん好きみたいなの」
「ほんもの?」
「うん、なんかよく知らないけど随分高いらしいよ、ははは」
 そこへ主人が入ってきた。
「さあさあ、皆さん座ってください。今日は皆さんの高校卒業のお祝いを、ささやかですが私のほうからさせて頂きます」
 3人がテーブルにつくと、使用人が料理の皿を持って入ってきた。主人が使用人を皆に紹介して、千香が真夜と綾規恵をそれぞれ紹介する。
「それでは、始めるとしましょう。ところで、皆さんは先日高校を御卒業されたばかりとの事ですが、お酒は召し上がったことはお有りでしょうか?」
 3人はいたずらっぽい表情で、お互いの顔を見合わせた。
 実は、高校の3年になってから、ともだち同士でちょくちょく居酒屋やカラオケボックスで飲んだりしていたのだった。
 3人ともけっこういける口であった。
「あのー、叔父さま、うちの父には内緒なんですが、みんな結構飲めるんです。内緒ですよお」
「ほっほっほ、そうかそうか。では、これで乾杯しよう。お父さんにはもちろん内緒にしておくよ」
そう言うと主人はシャンパンの瓶を手にとり、栓を外しにかかる。

 スポーンッ!という音とともに室内には女の子たちの拍手と嬌声が鳴り響いた。この瞬間、千香、真夜、綾規恵の、この別荘に来てからの少しだけの緊張感がすべてはじけ飛んだ。
 シャンパングラスによく冷えたシャンパンを注ぎ、それぞれに手渡す。
「それでは、千香ちゃん、真夜さん、綾規恵さん、高校御卒業おめでとうございます。乾杯!!」
「かんぱーい!」「かんぱーい」

 それからはもう、今日行ってきた場所の話や、今日の料理の話、仏文学者としての叔父さんの仕事の話、親に言えない高校時代の話と、にぎやかに盛り上がりっぱなしである。
 一日中汗ばむほどの陽気の中あちこちと歩き回って来た3人は、みな喉も乾いていたせいもあってシャンパンのボトルが空になると、やはり主人が東京からワンケース持ってきたギネスビールの限定ボトルを結構いいペースで飲んでいる。今までの高校生活から解放され、一日伊豆の自然を楽しんで、今夜はもうこのまま誰にも気兼ねせずに過ごせるという開放感もあっての事だろう。
「これ、スッゴーイおいしい!なんの魚ですかー?」
「はい、今朝伊豆の近海でとれた金目鯛の包み焼きでございます」
「ハーブのすごいいい香り!これ、なんて言うハーブですかあ?」
 やはり女の子である。今までに食べた事のない御馳走に、とても興味があるのだ。

 乾杯から1時間すこしたった頃、テーブルの上は、まだ料理の話でにぎやかに盛り上がっている。
「千香ちゃん、わるいが我々はそろそろ失礼するとするわ」
「えー、叔父さま、もうちょっといいじゃないですか」
「いやいや、あとは若い人だけでゆっくり、思う存分盛り上がってくれたまえ」
 と言うと席を立った。今晩はここから車で30分程の所にある海沿いの創業130年という由緒あるホテルに宿泊する予定になっている。
「なにぶん、こんなところで夜中に女の子3人だけじゃあ物騒だから一応表から防犯用のロックをかけて出るよ。セキュリティーの関係で別荘の全ての窓とドアをロックして出るが、もう外に出る用はないな?」
「はい、もちろんもう外出なんかしないでみんなでいい子にしてますよ、叔父さま!」
 千香は少し赤くなった顔でニコニコして答える。
「我々はこのホテルに泊まっているから、何かあったら電話しなさい」
 と言って、宿泊先のホテルの電話番号を書いたメモを千香にわたす。
「テーブルの上は片付けないでいいからそのままにしておきなさい。あとはもう何度もここに来ているんだし、わかるよな」
「うん、だいじょうぶ。今日はほんとにありがとう」「ほんとにごちそうさまでしたー」

 3人は玄関まで叔父たちを見送ると、再びパーティールームに戻る。
「今日はなんか私、久しぶりにすっごくいい気分!伊豆の自然と最高の御馳走!この料理ほんとに美味しいね!千香、ほんとにありがと!」
 と言うと、ほろ酔い気分の真夜はおどけて千香に抱きついて頬に「チュッ」とキスをする。
「いやーん、真夜もう酔っぱらってんのー?」「きゃははは」
 もう別荘には3人だけである。いくら騒いでも、はめを外しても、今日だけは誰にも何も言われない。
 3人の開放感は100パーセントに達していた。
 千香、真夜、綾規恵の3人はギネスビールを飲みながら、美味しい料理をつまんんで、思う存分話に花を咲かせた。


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