春休み、お屋敷の応接間で 第1話




 亜矢子は、おととい高校を卒業したばかりだ。
 両親の転勤の関係で、幼い頃から欧州を中心に数カ国で暮らしてきた。
 英語はもちろん、仏語も滞在が長かったせいでほとんどネイティブに使いこなせる。イタリア語、スペイン語なども日常会話ならまったく問題ない。逆に、日本の漢字が苦手だったりする。
 16才の時に日本に戻ってきて、東京にある私立の女子高に編入した。欧州育ちの社交的な性格の亜矢子は、日本の学校にもすぐにうちとけて、とても楽しく、充実した高校生活を送った。大学も早い時期に推薦で、やはり東京にある有名な私大に決まっていた。

 今日は先週アルバイト情報誌でみつけた翻訳のバイトの日だ。アルバイトの依頼主は仏文学者で、その仏文学者の自宅での仕事である。たぶんなんらかの文献の翻訳であろう。時給はけっこう良く、おまけに午後の1時から都合のいい時間までで、なんと昼食事付きである。

 私鉄に乗り、高級住宅街で有名な駅を降りて、5〜6分歩いた所にその屋敷はあった。閑静なお屋敷街のなかにある、古いけれどもしっかりとした造りの洋館であった。
「わー、素敵。日本にもまだこんな建物があったんだ!やっぱりこんなとこに住みたいなあ」
 呼鈴を鳴らすと、ほどなく初老の男性が現れた。
「お待ちしておりました。御苦労さまです」
 たぶんこの屋敷の使用人であろう。とても上品な感じの老人である。
「どうぞお入りください」
 亜矢子は1階の応接間に通された。
「どうもわざわざ御苦労さまです。実は主人は今朝、急に学会の用が入りまして出かけております。夕方には戻る予定ですが、誠に申し訳ございませんが、それまでお待ちになっていただけないでしょうか。もちろん、お待ちになっていただいている間の時給はお支払いいたします」
(えっ、まあいいかな。こんな素敵な洋館で、春の午後の時間をのんびり過ごせて、しかも待っている間のアルバイト代までもらえちゃうんだから)と思った亜矢子は
「はい。私はかまいませんけど」
 と答えた。
 初老の使用人は部屋を出ると、すぐに食事の乗ったトレイを持って戻ってきた。
「よろしかったら、お召し上がり下さい」
「あっ、どうも有り難うございます。いただきます」
 トレイの上には、ローストビーフのサンドウィッチとサラダと紅茶のポットが乗っていた。聞く
 ところによると、この邸の御主人がたいそうグルメで、このローストビーフも自家製だそうだ。
 お客をよんで料理をふるまうのが趣味らしい。このバイトが昼食付きな理由がわかった。
「わっ、おいしい!このサンドウィッチ。なんか今日はしあわせだなあ」

 ゆっくりと食事を終え、紅茶を飲みながら窓から見える庭を眺めていると、コンコンとドアがノックされた。
「はい。どうぞ」
「失礼します」
 使用人が入ってきた。
「あっ、どうも御馳走さまでした。とっても美味しかったです」
 亜矢子は立ち上がって、お辞儀をしながら言った。
「いえいえ、とんでもございません。あの、こんなもんでよろしければと思い、お持ちしましたが」
 と言って、TVゲームと雑誌を何冊か持ってきた。
 慣れない手付きでゲーム機を応接間のテレビにつないだ使用人は
「なにかご用があれば、電話器の内線の1番を押して下さい」
 と言って丁寧に一礼すると、応接間を出ていった。

「ふー」
 亜矢子はソファに腰をおろして、のびをした。
 窓の外は、春の暖かい日ざしに庭の木々が揺らいでいる。
 ティーポットからカップに紅茶を注ぎ足して、外の景色を眺めながらしばらくボーっとしていた。
 春の午後のあたたかな日ざしのなか雑誌を眺めていたが、ついウトウトとしてしまう。
 ドアをノックする音で目を覚ます。
「失礼いたします。よろしければどうぞ」
 と言って、使用人がケーキとコーヒーを持って入ってきた。
 壁に掛かっているアンティークな時計を見ると、3時を指している。
「お待たせしてしまって、誠に申し訳ありません。先程主人から連絡がありまして、5時には戻るとのことですので、すいませんが今暫くお待ちいただけないでしょうか」
「あっ、はい。私の方は今日は特に予定もありませんので、かまいませんが」
 と亜矢子は答えた。それに、こうやって待っている間も、いいバイト代が貰えるのだ。
「他に何か御用があれば、申し付けください」
「いえ、いまのところ特にありません」
「では、わたくし一寸の間出かけますが、よろしくお願いいたします」
 と言うと、使用人は部屋から出ていった。

 ケーキを食べて、コーヒーを飲んだ亜矢子は、絨毯の上に座るとTVゲームを始めた。
 しばらくの間ゲームに熱中していたが、尿意を感じて壁の時計を見た。4時を少しまわったところである。
「おトイレ行きたくなっちゃった」
 と小さく独り言を言って、ゲームのコントローラーを絨毯の上に置くと立ち上がり、籐製の電話台に向かって歩いた。使用人の老人に、お手洗いを借りたいと伝えるためである。
 受話器を手に取り、内線の1番を押してみる。受話器の中から呼び出し音が聞こえるが、10回以上鳴っても反応がない。
「あれー、さっき出かけてまだ帰ってきてないのかなあ」
 しかたがないので亜矢子は勝手にトイレを探させてもらうことにする。応接間の入り口まで歩き、ドアノブに手をかけて廻すが、ドアは開かない。
「えっ、開かないよ、なんでだろう?」
 亜矢子は暫くドアノブをガチャガチャとやっていたが、どうやっても開きそうにない。
「あのお祖父さん、間違って外から鍵かけて出かけちゃったのかなあ。まあ、しょうがないや。
 しばらくトイレはがまんしよう。そのうちに帰ってくるだろう」
 亜矢子は元の場所にもどると、TVゲームの続きを始めた。


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