ゆいちゃん 6(いじわるな春風)




 小原唯(おばらゆい)当時16歳、埼玉県新座市

 4月、地元の公立高校に進学した唯。
仲良しの亜紀や翔子たちとは違うクラスになったものの、中学の時に習い始めたフルートをやりたくて、自分の意志で吹奏楽部に入部するなど、少しずつ成長していった唯であった。
 しかし新入部員である唯がいきなり演奏させてもらえる訳もなく、適正を調べるからと他の楽器をやらされたりもし、どうにかフルートに落ち着いたものの、ロングトーンなどの練習しかさせてもらえない毎日が続いていた。
 吹奏楽部の行事は多い。
夏には高校野球の応援演奏や埼玉県吹奏楽コンクール、秋には新座市民祭りや学園祭。冬になると六市内の中学高校合同演奏会出場などが予定されていた。
新入部員たちは、なんとかパートに食い込もうと必死に練習をする。
もちろん唯もその中の一人であった。
 ゴールデンウィーク明けにパート争奪のテストが行われる事が決まった。
成績によっては1年生でもパートを受け持てる。
それまで基礎練習ばかりやらされていた1年生も、我こそはと練習に力が入って行った。
 新入部員は全員女子で9人。
その中の4人がフルート希望であったが、フルート奏者は人数が多い。
現在3年生3人、2年生4人。
合計11人の中から6人が正式なパートとして選ばれ、落ちた者はサポートに回るか他の楽器に振り分けられるため、先輩たちは1年生に負けられないと必死になり、時には嫌がらせに近い言動まで飛び出して、唯たちはなかなか想うような演奏をさせてもらえず、先輩たちが帰った後に残って、1年生だけで暗くなるまで練習していた。

 5月5日。
この日も朝10時から練習があった。
いくつかの教室に分散して、パートごとに課題曲の練習をする。
唯たちもやっと先輩たちと並んで演奏することができ、コピーされた譜面を机の上に置いて、何度も何度も同じ旋律を繰り返し練習していた。
「はーい、じゃあここで休憩ね。」
12時過ぎになって3年生がそう言い昼休憩に入る。
音漏れを防ぐために締め切られていた窓が開けられ、心地よい風が教室内に入り込んできた。
「ゆいちゃん、お昼どうするの?」
親しくなった同じフルートの彩夏(あやか)が寄ってきた。
「あ、私お弁当持ってきてるの。」
唯が応えると
「よかった、私もお弁当なの。一緒に食べよ!」
彩夏は嬉しそうに言った。
唯はこのとき少し尿意を感じていて、先にトイレに行きたかったが、
「なんだ、みんなお弁当持参なんだ!」
と。あとふたりの1年生も寄ってきて、机を移動して食事の準備をし始めたので、そのことを言いづらくなっていた。
そこへほかの教室に散らばっていた他の1年生たちもやってきた。
新入部員9人中のうち4人がいるフルートの部屋が、何となく集まりやすいようであった。
(食事が終わってからでいいか・・・。)
みんなが楽しそうに集まっているので、ひとりだけ抜けるのも寂しく思い、唯は彩夏の横に座って弁当を広げた。
 上級生がみな教室を出て行ったので、そこは新入部員たちだけの空間となって、先ほどまでの厳しい練習から解放された事も加わり、唯たちは和やかに食事を始めていった。
「午後は何時から開始だっけ?」
「1時だって言ってたよ。」
「うーん、それまでゆっくり休みたいよね。」
「そうだよね。お昼終わったらさ、屋上に出てみない?」
「え、今日は屋上開いてるの?」
「うちの練習用に2時まで開いてるんだって。」
「そういえばトランペットの人たちさ、屋上で練習してるんだって。」
「そうなんだ。じゃあ行こうよ!」
「うん、早く食べて行こ!」
別に校舎の屋上が珍しいわけではないが、普段は解放されていない場所ということもあって、気分転換に行ってみたい気分になっていたのである。
 早々に食事を済ませると、みんなはペットボトルのお茶などを持って席を立ち、校舎の端にある屋上への階段方向へと歩き出した。
誰一人として先にトイレに行こうと言わない。
唯は「私ちょっとトイレ!」というタイミングをつかめないまま、彩夏たちと一緒に歩き出していた。
(まあ・・午後の練習が始まる前に行けばいいや。)
それほど深刻な尿意ではない。
唯はそう思って階段を上がっていった。
 さわやかに晴れ上がった屋上に出てみると、すでに何人もの先輩たちがたむろしており、唯たち新入部員はジャマをしないように階段塔屋の後ろ側に回り込んだ。
唯はフェンスにもたれかかって深呼吸をする。
「あーっ気持ちいいっ!」
暑くも寒くもない、そんな穏やかな日差しに包まれて、制服の短いスカートを揺らす風が心地よい。
唯はそのままズルズルと腰を下ろして、支柱土台のコンクリートの上に座り込んだ。
冷たくて硬い感触がおしりに伝わって尿意を刺激したが、それでも心地よさの方が勝っていた。
「ああ・・平和だよねえ・・。」
お茶を口にしている唯のすぐ横で、フェンスごしに遠くを見つめていた彩夏がポツリとそう言った。
まもなく始まる午後の練習を前に、今のひとときが彩夏にとってせめてもの平和な時間なのであろう。
「うん・・・」
唯は返すでもなくつぶやいた。
「あ、やだー、あれ見てー!」
「きゃっ、部長の◎○さんと××さん!?」
「あの二人ってさ、つきあってるんだよね?」
「わー、いいなあ!!」
「やっぱお似合いじゃん!」
みんなが声を潜めて騒ぎだした。
向こうの片隅で、フェンスにもたれかかって寄り添うように話し込んでいる男女に姿が見える。
噂には聞いていたが、その二人が一緒にいるところを唯は初めて見た。
(高校3年生のおつきあいって・・どんなだろう・・?)
遠くに二人を見つめ、唯はそんなことを思った。
 中学時代につきあい始めた祐哉(ゆうや)とは、同じ高校に進学していたが、それぞれがクラブ活動に力を入れだし、最近では会う機会も少なくなっていた。
かといって消滅したわけでもなく、回数は減ったもののメール交換は続けており、廊下で立ち話をすることもあった。
しかしあの頃のときめきや輝きは、今は感じられない唯。
(いつの間にか・・いい友達になっちゃたのかなあ・・・?)
常に存在を感じられたあの頃とちがって、今は祐哉の存在スペースが狭くなってきている。
時にはその存在が重荷に感じられる事もあった。
(つきあうって・・どういうことなのかなあ・・・?)
わりと冷めた感覚でそんなことを考えていると
(あーあ、なんだか眠くなって来ちゃった・・・。)
ブレザーの背中越しに感じるポカポカ陽気と、先ほどまでの厳しい練習の疲れからか、唯に睡魔が襲ってきた。
(んー、5分だけ・・5分だけ寝ちゃおう・・)

「なんだー。全員ここにいるのかっ!?」
顧問の大きな声で唯はハッと目が覚めた。
(やばっ、ホントに寝ちゃってた!)
うたた寝していた間に、吹奏楽部の面々がみな屋上に集まってきていたようである。
「よーし、天気もいいことだし午後の練習はここで開始する!」
みんなが顧問の回りに集まっていく。
唯もあわてて立ち上がり、スカートを払いながら彩夏の後を追うように駆け寄った。
「全体の通し練習から始める。全員楽器を持って10分後に集合だ!」
その声でみなが階段の方へと走りだした。
「譜面はいらない、楽器だけ持ってこいっ!」
階段を駆け下りる生徒に向かって、顧問はさらに大きな声でそういった。
唯も階段へと走り出したが、
(あ、お茶っ!)
先ほどの場所にお茶を置きっぱなしにしている事を思い出し、あわてて取りに戻ると、恥ずかしそうに顧問の前をすり抜けようとした。
「小原。」
顧問が声をかけてきた。
「は、はい!」
ペットボトルを握りしめた唯が、何を言われるのかと緊張する。
「ちょっと職員室まで行ってくれ。」
「え?」
「先生方が何人かいたからな、練習を冷やかしに来てくれって伝えろ。」
「あ、はい!」
なんだそんな事かとホッとして、軽く会釈をすると階段へ向かい、そのまま勢いよく1階まで駆け下りて行った。
トイレに行く時間を作るため、唯は急いでいた。
が、職員室への廊下に出た時、そこで唯はふと走ることをやめた。
(知らない先生だったらいやだなあ・・・。)
慣れていない人や目上の人との会話が苦手な唯。
それを思うと次の一歩が踏み出せないでいたのだ。
かといって頼まれている伝言を無視することはできない。
仕方なく唯は重い足取りで歩いていった。

 ガランとした職員室には3人の男性教師がいたが、いずれも唯とはなじみがない顔ぶれであった。
(わっ、やっぱり知らない先生ばっかりだ・・、やだなあ・・・)
緊張が高まる唯。
それに伴って先ほどからの尿意も高まってくる。
「あ、あのぉ、すみません・・」
やや息を切らせながら、開け放たれた職員室入り口に立つ唯。
しかしその声は中で談笑中の教師たちには届いていなかった。
「あ・・すみませーん!」
2〜3歩中に入って、先ほどよりも少し声を張ってみる。
それにやっと一人の教師が気づいて振り向いた。
視線が合って一気に緊張が高まる唯。
「あ、あの・・練習が・・その・・始まるので・・あ、屋上で・・あの・・」
しどろもどろになって要領をえない。
「ん?練習がどうしたって?」
3人の視線が唯に集まった。
「あ・・す、吹奏楽部です。その練習が・・その屋上で・・」
じっと立っていることができず、体を左右に揺らしながら必死でそう言う唯。
「ほう、屋上で練習するのか?」
「あ、はい・・冷やかしに来いって・・あ、来てくださいって・・」
「冷やかし?」
「あ、はい・・顧問の先生が・・その・・」
「ああわかった。」
「はい・・失礼しますぅ・・。」
唯は教師たちと目を合わせることなく、そこまで言うとサッと身をひるがえして職員室を出ようとしたが
「君の手に持っているのは何?」
背中越しに一人の教師が声をかけて来て立ち止まった。
唯はさらに緊張を高めて
「あ、あの・・お、お茶・・です・・」
半身振り向いた状態でそう答えた。
「はは、まさかそれを演奏に使うんじゃないよな!」
教師がドッと笑う。
「あ、こ、これはた、ただのお茶で・・私はフ、フルート担当です・・」
からかわれていることもわからずに必死で答える唯に、教師たちの笑い声は一段と大きくなった。
緊張のため、ペットボトルを握りしめている手が汗ばんでいる。
なすすべがなく立ちつくしている唯に
「了解したよ。手が空いた人から聴きに行くから。」
助け船のようなその声にホッとして、唯は一礼すると職員室を飛び出した。
(あぁあ、トイレ行きたい!!)
解けていく緊張感に逆比例して、唯の尿意は一気にふくらんでいだ。
(職員用に入っちゃおうか?)
すぐ目の前に職員用トイレがある。
唯は楽器をおいている3階の教室に戻る前に、先にトイレを済ませようかと思ったが、ペットボトルを持ったままトイレに入るのもどうかと思うのと、いくら学校が休みで人がいなくても、職員用を使うのは気が引け、もし誰かに見られたりしたらイヤだなと感じ、とりあえず教室まで戻ってからにしようと階段を駆け上がっていった。
(早くしないと・・トイレに行く時間がなくなっちゃうよぉ!)
顧問は10分後に集合と言っていた。
すでに5分近く過ぎてしまっているかもしれない。
階段に誰も人がいないので、唯は短いスカートを揺らしながら、1段とばしで駆け上がっていった。
 息を切らせながら教室に戻ると、そこには皆がそろって唯を待っていた。
「どこ行ってたの小原?」
「待ってたんだよ。」
「みんな揃って屋上に行くんだからね!」
先輩たちが口々に唯を問いただす。
「あ、あの・・顧問の先生に・・で、伝言を頼まれて・・あの・・」
ペットボトルを握りしめながら、荒い呼吸でしどろもどろに答える唯。
「そう。じゃあ早く用意して。行くよ!」
唯が頼まれた伝言の内容など気にする様子もなく、3年生はそう言いながら教室を出ようとし、皆がそれに続いて移動し始めた。
「あ、はい・・あの私・・トィ・・」
言いかけて唯は口ごもった。
廊下をクラリネットのグループが屋上に向かって歩いている。
どうやら集合時間が迫っているようであった。
(ええっ、トイレに行く時間ないのーっ!?)
先輩たちはすでに廊下に出ていて、新入部員たち3人もそれに続いていた。
「ゆいちゃん早く!」
彩夏が扉ごしに手招きをしている。
(どうしよう・・トイレ・・)
唯は躊躇した。
しかしみんなが屋上に向かって歩き出している状況で、今さらトイレに行きたいと伝えることなど唯にはできなかった。
仕方なく唯はペットボトルを机の上に置き、自分のフルートを抱きかかえて彩夏のそばまで駆け寄った。
「なんかさ、いきなり合同練習だもん、ワクワクするね!」
彩夏が弾んだ声で唯に言うが、
「・・うん・・」
唯はトイレのことが気になって、上の空の返事をしてしまう。
(あやちゃんたちはトイレに行ったのかなあ・・?)
重い足取りで屋上への階段にさしかかると、吹き下ろしの風が唯の足に絡んできた。
何でもないときなら心地よく感じられるその風も、今の唯には意地悪されているようにさえ思えてしまう。
(どうしよう・・我慢できるかなあ・・・?)
行くことができないとなると、尿意はさらに強くなってきたように感じられ、さわやかな五月晴れの空に反して、唯の心は曇りだした。

 新入部員にとって、全体での演奏に参加することは初めての事である。
屋上のほぼ中央付近に集合し、顧問に指示されるままに各パートの立ち位置を決め、各楽器がチューニングをとった後、メインになるトランペットの単独演奏を聴きながら、他のメンバーはそれぞれ頭の中でイメージ演奏をする。
その後すぐに全体での演奏が始まった。
 30数名が奏でる演奏は壮大なもので、唯はその音の大きさに圧倒されてしまい、思うように自分の音が出せないでいた。
いや、圧倒されたというのは言い逃れかもしれない。
力強くフルートを吹くためには、おなかに力を入れなければならない。
しかし今の唯は下腹部に力を加えることにためらいがあり、口先だけで吹く事しかできず、どうしてもひ弱な音しか出せないでいたのだ。
さらに、午前中のように座っての練習なら楽であったが、今は立ったままでの演奏なので、そのつらさも加わっていた。
(ううう・・やっぱりおしっこしたい・・)
さわやかであるはずの風がスカートの中をすり抜けるたびに、唯は寒気すら感じだし、尿意に拍車がかかってしまう。
その感覚が唯のすべてを支配してしまい、上の空の演奏しかできないでいたのであった。
 一通りの演奏が終わったころ、手が空いている教師たちが数名、屋上に姿を表した。
顧問はその教師たちに軽く会釈をし、腕を組みながらみんなの前を何度か往復し、おもむろに口を開いた。
「ペット!、走りすぎだ。」
「フルート!、音がかすれているしリズムに乗っていない。」
「バリトン!、スタッカートをしっかりとれ!」
「トロンボーン!、4分の1音ほどフラットになりがちだ。」
「クラリネット!、時々音がひっくり返っているぞ!」
顧問は顔に似合わず繊細な耳を持っている。
たった一度の合同演奏で各楽器に細かく注意を入れていた。
(えっと・・最後にトイレに行ったのはぁ・・)
そんな顧問の声を遠くに聞きながら、唯は朝からの自分の行動を振り返っていた。
(えっ、私って朝からトイレ行ってないじゃん!!)
唯は今朝8時過ぎに目覚め、そのときに行ったきりで、すでに5時間以上が過ぎている。
クラブは10時からであったが、新入部員は1時間以上早く登校して個人練習をし、10時前に誰かがトイレを誘っていたが、唯は苦手なフレーズを克服したくて、そのまま教室に残っていたのであった。
(そうだ、あやちゃんたちは練習始まる前にトイレ行ってたんだ!)
あのとき自分も一緒に行っておけばよかったなと後悔する唯。
(朝、コーヒー2杯も飲んじゃったもんなぁ・・)
(練習中も・・けっこうお茶・・飲んでいたもんなぁ・・)
(やっぱりお昼を食べ終わったとき・・行っておくんだったなぁ・・)
(あーあ、さっき職員用トイレに行っていたらなぁ・・)
要領の悪さは、小さい頃からいっこうによくなっていない唯であった。
「・・を注意して、さ、もう一度はじめから行くぞっ!」
ひときわ大きな顧問の声に、唯はハッと我に返った。
細かい指摘を受けていた事など、全く聞いていなかった唯である。
そのままみんなに釣られるようにして、下腹部をいたわりながらフルートを吹いていた。
(ああ・・早く終わってほしい・・・)
演奏に集中することができず、ついついリズムが遅れがちになる唯。
あげくにはうまく音が出せなくなり、クチパクならぬ指パクにまでなってしまっていた。
(もう終わってよぉ、おしっこしたい!)

 何度かの演奏が終わって、またそれぞれの教室に戻って楽器ごとの練習をすることになったのは、それからおよそ30分後の事であった。
その間にも唯の膀胱はジワジワとふくれあがっていき、後半はじっと立っていられなくなってきて、体を揺すったり、片方の足をクネクネさせたり、時にはすり足までするようになっていた。
立ち位置の一番端にいた事で、その仕草は誰にも気づかれることはなかったようだ。
解散の声を聞いたとき、
(よかった!、トイレ行ける。おしっこできる!!)
唯に叫びたいほどの感情が走った。
真っ先に階段を駆け下りてトイレに飛び込みたい!
そんな衝動を必死で押さえ、ギュッとフルートを握りしめて、階段へと移動する列の順番を待って耐えている唯に、
「フルートは全員ここに残れっ!」
顧問の鬼のような一言が飛び込んできた。
(えええっ!!?)
すぐにでもトイレに行けると思い、じっとこらえていた緊張がゆるみかかっている唯にとって、もうこれ以上我慢する余裕など残っていない。
(そんなあっ、もう漏れちゃううっ!)
両手でしっかりとフルートを握りしめ、唯は泣き出しそうな顔で顧問の顔を見た。
「どうもフルートはリズムのニリが悪いように思う!」
顧問はそう言って手招きで9人を集合させた。
誰ひとり愚痴めいた言葉も出さず、唯以外はサッと行動する。
「一人ずつ演奏してもらう。後の者は少し散らばって練習していろ。」
3年生から順に演奏することになり、残ったメンバーは広い屋上の隅の方へと散らばっていった。
新入生たちは誰が言うでもなく、昼休みに休憩していた階段塔屋の裏手へと移動して行く。
誰もが無言であった。
およそみんなの心の中は、顧問の前でうまく演奏できるであろうか、はたまたどんな指摘を受けるのであろうかと、そんな思いを巡らせて緊張しているのであろうが、唯はそれどころではなかった。
(どうしよう・・もう我慢できない・・)
どう考えてもこれ以上我慢できる自信はない。
ましてこの状態ではとても演奏なんかできない。
恥ずかしいけれど、先にトイレに行かせてもらおう。
唯はそう思って、彩夏たちよりも遅れがちに歩いていた足を止めた。
振り返ると、すでに3年生は演奏を始めだしており、顧問は腕組みをしながらそれに聴き入っている。
(ああ・・これじゃあ言えないよぉ・・)
演奏の邪魔をしてまで、顧問に許可を取りに行く事などできるわけがない。
(どうしよう・・黙って行っちゃおうかっ!?)
唯が立ちつくしている場所は階段のすぐそばである。
そのまま階段を下りて、渡り廊下まで行けばトイレがある。
しかし気が小さい唯にとって、許可を取らずに場所を離れる罪悪感が大きく立ちはだかり、その行動を起こす勇気がわいてこない。
 一度だけ行ったトイレからすでに5時間半以上が経ぎ、それまでに摂った水分の大半が今、唯の膀胱の中でひしめき合っている。
それは唯の下腹部にどっしりと大きな存在を示し、柔らかな肌を引き延ばして固く丸く張り出していた。
(どうしよう・・漏れちゃうよぉっ)
さわやかな春風がひときわ大きく吹き抜けて、唯たちの短いスカートを舞い上げていった。
(だめっ、漏れちゃうっ!)
その風は唯を追い込む凶器になってしまっていた。
 塔屋の壁に片手をつき、フルートを握りしめた手で前を覆うようにして、唯はその場に沈み込んでいった。
(はぁ・・もうおしっこしたい!、もう出ちゃうっ!)
神経を一点に集中し、額に汗を浮かべながら耐えている唯。
塔屋の裏手に誰もいなければ、そこでこっそりおしっこ出来たのに!
ううん、もうおしっっこ出来るならどこでだっていい!!
大きな波となって押し寄せて来る尿意で、思考回路が混乱しかかっている唯は、実際には出来るはずもないことまで思い浮かべていた。
「ゆいちゃんどうしたの?」
彩夏が唯の異変に気づいて、そっと駆け寄ってきた。
その声を聴いた瞬間、張り詰めていた由衣の緊張の一部がプツンと切れたかのように作用して、必死でとじ合わせている部分に暖かい何かがあふれ出てくるのを感じた唯。
「やっだめぇっ!」
「えっ?」
彩夏は唯が何を口走ったか聞こえていなかった。
「あ、あやちゃん・・トイレ!」
唯は、どこにその力が残っていたのかと思えるほど勢いよく立ち上がると、彩夏にフルートを託して、スカートを大きくひるがえしながら階段へ走り込んだ。
「ゆいちゃん!」
階段を駆け下りる唯に、彩夏が塔屋の中まで追いかけて来て声をかけた。
「ごめん・・もう限界なのっ!」
唯の声が階段に響く。
片方の手を階段の手すりに添え、もう片方でスカートの上から前を押さえながら、唯は駆け下りていった。
(だめだめだめ、まだだめぇぇ!!)
まだ下着にまでは達していないそれを、唯は手を添えることで必死にこらえ、半泣きの顔で駆け下りていった。
 あのとき彩夏が声をかけていなければ、唯はあのまま失敗していたかもしれない。
彩夏の声がきっかけとなり、唯は残されていた最後の力を出すことが出来たのかもしれない。
3階まで降りると、教室からはクラリネットの音色が聞こえていた。
廊下には全く人影はない。
唯は左手で額の汗をぬぐいながら渡り廊下へと走った。
 並びにある女子トイレの扉を勢いよく開けると、唯は両手でスカートをまくり上げながら下着に手をかけ、手を離したことで開こうとしかかっている扉を、最後の最後の精神力で必死にこらえ、一番手前の個室のドアを肩で押し開けて駆け込み、便器をまたぐ動作、下着をおろす動作、そしてしゃがみ込む動作を同時にこなした。
精神力だけでこらえていた最後の緊張を解く動作は、唯の意志に関係することなく、それらの動作とほぼ同時に解けて、勢いよく唯の体からあふれ出していた。
鍵などかける余裕はない。
(はぁあ、おしっこできたあっ!)
息が詰まるような、何とも言えない感覚が唯の体を包む。
「ふぅう・・・」
思わず吐息が漏れる唯。
しかし唯は焦っていたために、うまく位置をあわさずにしゃがんだので、少し斜めを向いてしまっていて、飛び出した大半のおしっこがはみ出し、便器の端に当たって跳ね返るしぶきが紺のハイソックスに降りかかっていた。
「わl、やばあ!!」
とてつもなく大きな緊張から解き放たれて、その開放感に浸っていた唯が、それに気づくまでに十数秒かかっていた。
あわてて足の位置を調節し、まともな方向を向けてもなお、唯のおしっこは出続けていた。
(あぁあ・・けど・・なんか気持ちいい・・)
体が軽くなっていく感覚を感じながら、唯はつぶやいていた。

 すっかり気持ちが落ち着いた唯は、顧問から叱責されることもなく、それなりに演奏もこなして、この後パートを受け持つ事ができ、いろんな行事に参加することが出来たのであった。


つづく

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