ゆいちゃん 4(課外授業)




 小原唯(おばらゆい)当時13歳、埼玉県新座市。
中学生になった唯。
友達が勧めるままにバレーボールクラブに入ったが、特に練習に力を入れる訳でもなく、目立たない1年生として過ごしていた。
 2学期の10月半ばのある日、3時限目と4時限目を使い、学校近くにある平林寺境内の野火止用水へ、2クラス合同でスケッチに出かける美術の授業があった。
その日は快晴で、さわやかな風が吹く穏やかな日であった。
 2時限目が終わり15分の休憩時間に入ると。クラスメイトたちは一斉にスケッチに出かけるための準備をはじめたが、唯はまだ前の授業のノート整理が片付かなくて、その波に乗り遅れていた。
予鈴が鳴り、
(あれ、もう誰もいないや・・)
教室にたったひとりでいる自分に気づき、このときになってようやく時間がないことを認識する唯。
教科書などをしまい込んで席を立つと、
「唯ちゃん、もうみんな集合してるよ!」
「先生が呼んで来いってさ!」
隣のクラスになった友達の亜紀と翔子が教室に飛び込んできた。
「あ、ごめんね。今行く!」
唯はふたりに急かされながら、あたふたと画材の用意をし、背中を押されるように階段を下りて中庭に出ると、唯たちの姿を確認した美術の男性教師が、
「時間がないから急ぐぞ!」
と声を上げ、足早に歩き出した。
70人ほどの列がゾロゾロと動き出す。
その一番後ろについた唯は、亜紀と翔子から
「ほんと、唯ちゃんはのんきだよね。」
「って言うかさあ、むしろノロマの部類だよ。」
などといじられながら歩いていた。
 野火止用水に到着すると、班単位で行動すること、決められた範囲から外に行かない事、散策の人や平林寺に迷惑がかからないようにする事などの注意を受け、唯たちの班もリーダー格の男子生徒について移動を始めた。
(班分けなんかしなくていいのにぃ!)
 班は名簿順に男女が3人ずつ組まれたもので、唯はその中に親しい子がいないので、なんとなく気後れして気分が乗っていなかった。
一人の教師だけで約70人の生徒を連れての課外授業なので、管理しやすいように班分けをしているようだ。
「ここらで描こうぜ。」
やや歩き、他の班から少し奥の方まで来た場所で、リーダー格の男子がそう言って、銘々は座る場所を確保して準備を始めた。
女子3人も並んでビニールシートに腰を下ろしたが、あとのふたりは仲がいいようで話が弾んでおり、唯は疎外感を感じて居心地が悪かった。
それでも気を取り直して、スケッチを始める唯。
 時折木立をざわめかせて吹き付ける秋風が、いくつも木漏れ日を作り、まるでスポットライトのように揺れ動いて、白い画用紙の上にまぶしく明暗を投影していた。

 どれくらいの時間が過ぎただろうか。
浅い体育座りの格好でスケッチをしている唯は、ビニールシートの上に座っているとは言っても、さすがにお尻が痛くなってきて、画板で隠しながら足を延ばしたり膝を立てたりを繰り返していた。
 中学に入ってから急に身長が伸び、膝丈で新調した制服のスカートが、今では膝上10センチほどのミニになってしまい、体育座りの格好をするとスカートが上がって、画板で隠している太股はほとんどむき出しのようになっており、吹き付ける秋風がモロに下半身に入り込んで、それが冷たい土の感触にプラスされて、
(なんか・・おしっこしたくなってきた・・)
やがて唯は尿意を感じるようになってきた。
休憩時間にトイレを使わなかった唯は、朝に一度行ったきりの状態でここに来ている。
(どうしよう・・ほんとにおしっこしたくなってきた・・。)
普段でもお昼までに一度はトイレに行くことが多いのに、秋風が吹く外でじっと座っているのであれば、尿意は当然のように沸いてくる。
(さっきトイレに行っておいたらよかったなあ・・。)
休憩時間にのんびりと前の授業の整理をしていた唯は、この時になって初めてタイミングを外していた自分を知った。
(ここって・・トイレあるのかなあ・・?)
解散前に受けた注意に、トイレのことは言われていなかった。
なにげに周囲を見渡しても、それらしい建物も案内表示も見えない。
(だれもトイレに行きたくないのかなあ・・?)
すぐそばにいるクラスメイトも、あちこちに散らばっているクラスメイトたちも、和やかに話をしながらスケッチをしているようである。
(どうしよう・・?)
一度感じだした尿意は、刻一刻とその強さを増していく。
あとどれぐらいの時間ここにいるのか、それさえもわからない状態で、唯は落ち着きがなくなってきた。
(先生に言おうかなあ・・?)
そう考えた唯。
しかし美術教師の姿は確認できない。
(どこにいるんだろう?こっちに来てくれないかなあ・・)
巡回している教師がこちらの班まで来てくれた時に、トイレに行きたいことを言おうと考えた。
(けど・・なんか・・)
内気な唯はまだクラスに馴染みきれず、小学校からの友達とばかり親しくしていて、今一緒にスケッチをしているのは、ほとんど口を利いたことがない男子3人と女子2人である。
 唯はそのころ思春期に入りかかっていて、なにかと男子の視線が気になりだした頃で、女の子同士でも言い出しにくい「トイレ」という言葉を、男子がいる前で、しかも男性教師に伝えることは、とても恥ずかしいことに思えてならなかった。
(でも・・おしっこしたい・・)
まだ幼さが残る唯の思考回路は、時間とともに高まってきた尿意に影響されて混乱しかけていた。
 体育座りの格好は下腹部を圧迫する。
お尻が痛くなっていたこともあって、唯は画板を体の横に置いて勢いよく立ち上がった。
「どうしたの小原さん?」
すぐ横に座っていた女の子が驚いたような顔で唯を見上げ、
「スカートあがってるよ!」
と、大きな声で付け加えた。
何度も体を動かしていた為に、お尻に敷いていた部分が折れ曲がったままになっていたのであろう。
唯はとっさに向きを変えてスカートをはらったが、男子3人の視線は完全に唯をとらえていた。
(やーん、見られたあっ!)
ただでさえ男子の視線が気になっていたこの時期に、めくれたスカートとパンツを見られたであろう事が、唯にはたまらなく恥ずかしい。
男子たちはすぐに唯から目を離し、何事もなかったかのように平然としていたが、唯はそこにいることが苦痛で、
「あ・・ちょちょっと・・友達の絵を見てくる・・」
そう言い残して、足早にその場所を離れた。

   唯が友達を求めて歩いていると、あちこちの班でも立ち上がっている者や、ふざけあって騒いでいる者が目立った。
ちょうど少しダレてきた時間になるのであろう。
 友達の亜紀がいる班を見つけた。
少し先の方から美術教師がこちらに向かっている姿も見える。
唯はちょうどよかったと嬉しくなって、亜紀の元へ駆け寄り、せっせとペンを走らせている前にしゃがみ込んだ。
「わっビックリしたあ、唯ちゃん!」
画用紙から目をあげ、どうしたの?という顔をする亜紀に、唯は
「私もここで描きたいなあ・・」
と言って寂しそうな顔をした。
「なにかあった?けんかしたの?」
太陽を顔に受け、まぶしそうな目をしながら亜紀が聞く。
「・・そうじゃないけどさ・・私の班・・」
唯はそこまで言って口ごもった。
「ああ、唯ちゃんとは親しくない子ばかりだね、あの班。」
亜紀は唯の気持ちをわかってくれていた。
「うん・・でさ・・」
唯は膝小僧をゆすりながらまた口ごもった。
[一緒にトイレ行って!!]
亜紀にそう伝えたい唯だが、すぐそばには男子生徒も座っていて、どうしても口にできない。
「亜紀ちゃん、お尻いたくない?」
口実を見つけて亜紀を立ち上がらせ、なんとか男子生徒から少しでも距離をあけようと考えた唯。
「大丈夫だよ。クッション敷いてるもん!」
唯の期待に反して、亜紀は笑いながらスカートの下を指さした。
「ああ・・そうなんだ・・」
唯はがっかりして力のない声で言った。
「それより唯ちゃん、パンツ見えてるよ。」
さっきの子のように大きな声ではなく、唯に顔を近づけてささやくような感じで亜紀が指摘した。
スカートが短めになっていた唯は、お尻部分を巻き込むことなく無造作にしゃがんだために、真正面に座る亜紀からは、おまたの部分が丸見えになっていたようだ。
「え・・ちょっとやだあ!」
思春期の唯は、同性であっても下着を見られることは恥ずかしい。
あわてて立ち上がろうと腹筋に力を入れた時、時間とともに膨らんできている下腹部の違和感が増強され、
「!」
思わずその違和感をかばおうとして動作を止めたために、浮かしかけた腰のバランスを崩してしまって
「ひゃっ!」
そのままお尻から崩れ落ちるような格好で尻餅をついてしまった。
反動で浮いた両足が開いてしまい、スカートがめくれて白いパンツが丸見えになってしまったが、両手は上体を支えているので隠せない。
「唯ちゃん!!」
亜紀が画板を放り投げてにじり寄り、クッションで唯のスカートを隠しながら
「大丈夫?」
心配そうに唯の顔をのぞき込んだ。
「あ・・うん、ごめん・・」
唯はクッションで隠しながらスカートを直し、亜紀の手を借りて立ち上がると、手についた砂をはたいた。
亜紀がスカートのお尻部分をはたきながら、
「大丈夫?痛くない?」
なおも心配そうに聞く。
「あ・・うん。」
それほど強く打ち付けた訳ではないので、亜紀が心配してくれるほど痛みはなかったが、それよりも周囲のみんなにパンツを見られてしまった事が気になって、周りの様子を見ることが出来ずにうつむいていた。
その上にのしかかってくる尿意。
尻餅をついたとき、全身がこわばって力が入っていたために、衝撃で漏らしてしまうことはなかったが、今はお尻をはたいてくれる亜紀の手の衝撃が、膨らんだおなかに伝わって辛い。
「も・・もういいよ亜紀ちゃん、ありがと・・」
うつむいたまま、唯はそう言って亜紀の手を取り、
「あのさ・・わたし・・」
ちょうどそばにいる男子たちからすこし距離が出来たので、唯は今しかないと思って[一緒にトイレ行って!]と言いかけた、ちょうどその時、
「おまえたち、いいかげんにしろっ!!」
美術教師の怒鳴り声がすぐそばで聞こえ、唯は思わず言葉を飲み込んでしまった。
おそるおそる声の方を向くと、ふざけ合って暴れていた男子生徒数人が、教師から怒鳴られている。
その声に恐れをなしたかのように、同じようにスケッチをサボっていた他の生徒たちが一斉に元の場所に戻り、立っているのは怒られている男子生徒数人と、唯たちだけになってしまった。
「唯ちゃん、早く戻りな!」
亜紀が小声でそう言って唯の肩を叩いたが、唯は班を離れてここまで来ている事を怒られると思い、足がすくんでいた。
「そこのふたり、何してる。はやく座れっ!」
思ったとおり、教師は唯たちにも声をかけてきた。
「ん、おまえはB組の小原・・班はここか?」
きつい口調ではないが、唯には詰問のようにも聞こえる。
唯は必死でしゃべろうとしたが、足がふるえて声が出ない。
「何やってる。早く自分の班に戻れ。」
同じようなトーンでそう言われ、
「あ・・はい・・・あの・・」
かろうじて出せた声で、唯は必死にしゃべろうとしたが、
「もうあと20分ほどで引き上げるぞ。今の内にキリをつけるんだ!」
教師は唯にかまわずに、周囲に向かって声をかけた。
「あ・・あの・・(トイレに・・)」
そう訴えたい唯だが、どうしても声にならない。
あまりに唯がオドオドしているので、亜紀が心配して聞いてきた。
「唯ちゃん、どうした?」
「あ・・うん・・」
言いかけて唯はまた口ごもった。
あと20分ほどで引き上げるという時に、トイレに行きたいなんて言うと、また怒られるのではないかと唯は思った。
それにあと20分ぐらいなら我慢できる。みんなに知られずに済む。
唯はそう思って、
「・・なんでもない。ごめんね。」
あえて平静を装い、亜紀にそう言って手を振りながら歩き出した。
「小原、班の者にあと20分だと伝えろ!」
教師の声に、唯は軽くコックリした。
 つい先ほどまで、あれほどにぎやかだったこの一帯が、教師が怒鳴ったことで水を打ったように静かになり、膨らんだおなかをかばうように、やや前屈みで歩く唯の、その引きずるようなシューズの音だけが際だっていた。

 由衣が戻ってくると、班のメンバーたちは誰もスケッチをしておらず、談笑しているようであった。
「小原さん、どこ行ってたの?」
「先生が回って来たら怒られるよ。」
「知らないって言ったらオレらが怒られちまうからな。」
「勝手にウロつくなよ。」
つぎつぎと非難の声を浴びせられ、唯は泣きそうになりながら、
「あ・・ごめん。今先生と会って・・きた・・。」
と、かすれた声で言い、まだ半分も描かれていない自分の画板を拾い上げながら、
「あと20分ぐらいで・・帰るからって・・」
と付け加えた。
唯の伝言で、もう教師はこっちには回って来ないと悟ったのか、男子たちは席を立ってうろつきだし、女子ふたりもおしゃべりに花を咲かせ出した。
ポツンと取り残された唯も、もうスケッチを続ける気分にはなれず、画材道具を片づけだした。
唯のおなかはパンパンに張っていて、かがむと尿意がこみ上げてくる。
(おしっこしたいよ!)
思わず押さえたくなる衝動を必死で収め、唯は片づけを終わって立ち上がったが、画材を持ったままじっとしていることは辛く、かといって座ることもできず、前屈みのまま、意味もなくその周辺をゆっくりと歩き回っていた。
(おしっこ・・早くおしっこ!!)
 あと20分ぐらいなら・・と思った唯には誤算がある。
それにプラスして学校までの所要時間。
あの時点から起算して、最低30分が必要であった。

 ピーーッという笛の音が、亜紀たちがいた方向から聞こえてきた。
集合5分前の合図である。
「おい、もう集合だ。片づけようぜ。」
リーダー格の男子が言って、みなが画材の片づけを始めた。
その様子を見ながら、(早く、早くして!)と願っていると、奥の方にいた別のグループが、早々に唯たちの前を通り過ぎて行った。
 おしゃべりしながらの片づけは手間取り、2回目の笛の合図で集合した唯たちの班は一番最後であった。
出発の時は友達の亜紀や翔子たちと一緒で、それなりに楽しかった唯だが、帰りは班単位で帰るため、しゃべる相手がいない疎外感と、激しく襲いかかってくる尿意の波で、唯は泣き出しそうな顔になっていた。
集団の最後尾を歩く唯の足取りは重い。
(・・おしっこ!)
我慢していることを友達に知られる事は、とても恥ずかしいと思っていた唯であったが、今は亜紀や翔子がそばにいて、自分が置かれている状況をわかって欲しいとまで思っていた。
(学校までなんて・・もうムリだよぉ・・)
何度か頭をよぎる弱音。
(どこかにトイレッ!!)
ちゃんとしたトイレでなくても、どこかに身を隠す場所はないかと、唯はそこまで追い込まれていた。
しかし学校へ帰る道のりに、唯の希望が叶うような場所はどこにもなく、半歩、一歩と遅れながら、皆の後に付いていくしかなかった唯。
画板をおなかの前に持ち、それで隠すようにして左手でそっとスカートの上から押さえた。
ほんのわずかではあるが、それで少し落ち着ける。
前を行く女子は唯に関心がない。
一番最後尾を歩くことで、かろうじて出来た行動であったが、時折すれ違う人が、唯の不自然な格好を見ていくような気がして、人とすれ違うたびにその手を離し、また押さえるということを何度も繰り返していた。
(早く学校について!!)
心はそう叫んでいたが、足取りは更に遅くなっていて、前を歩く女子から3メートル以上間があいていた。

 何度か押し寄せてきた尿意の波をこらえ、ようやく学校まで戻ってきた唯は、中庭で教師が次回の説明をしている間中、足をクロスしたり、体をくねらせたり、お辞儀をするような動作を繰り返していた。
それはわずか1分ほどの説明であったが、唯にはたまらなく長い時間に思われ、その場にしゃがんでしまいそうな衝動に駆られ、下唇をかみしめながら耐えていたのである。
 解散の声と同時に、唯は一目散に昇降口へと走った。
しかしそこは上履きに履き替える生徒で溢れ、一番後ろから走ってきた唯が割り込む余地はない。
(早くぅ、もう行かせてっ!)
そう叫びたい気持ちを必死で抑え、大きく体を揺すりながら耐えていた唯の靴箱周囲がようやく空き、上履きを取り出して床に落とし、かかと部分を踏みつけたままでそれを履くと、脱いだシューズと画板をそこに残したまま、一番近いトイレへと向かった。
 ちょうど給食時間になっており、ほとんどの生徒は食事中のために廊下はだれもいないが、唯の前にも数人の女子が、やはり同じように走っているのが見える。
(え・・まさか!?)
いやな予感は的中していて、その女子トイレは今、課外授業から帰ってきた女子で廊下まで列が出来ていた。
(うっそぉ!、どうすんのぉ!!!)
やはり2時限通しての課外授業のせいなのか、およそ半数以上の女子が、昇降口から一番近いここを目指して集まっていたようであった。
(そんなのダメだよ、もう我慢できないよぉ!)
もうすぐにおしっこできるんだと、唯の頭の中はそう思いこんでいて、すでに秒読み段階に入っている。
(いやあ、もう出ちゃうよぉ!)
今更恥ずかしいなどと言っている余裕はなく、由衣はスカートの前を押さえ、大きく体を折りまげながら中の様子を見てみた。
(フォークじゃないっ!)
皆が一斉にトイレに集中したために、フォーク並びの原則が崩れて、それぞれの個室の前に生徒が並んでしまい、それが廊下まで続いているようであった。
(無理無理っぜったい無理っ!)
フォーク並びなら、それほど人数はいないと思った唯であったが、この状況ではいつ自分が用を足せるかわからない。
かといって、今更ほかのトイレに走る余裕はなかった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!!??)
(まだダメよっ!)という頭からの指令で、唯はかろうじて耐えていた。
 何人かの女子が「ほかのトイレ行こ!」と言いながら列を離れて、唯は少し前に進めた。
しかしそれでもまだトイレの入り口前である。
廊下に人影がないのが幸いで、唯はさらに強くスカートの中を押さえていた。
(ダメッもう出ちゃう!)
学校に着いたあたりから、唯はほとんど精神力だけで耐えている状態であった。
みんながいるという状況がそれを支えていたが、トイレという場所を目の前にした事で、それは今、もろくも崩壊しかけている。
(いやっ、もうイヤッ!!)
唯はその場で待つことが出来なくなって、元来た方向へ走りだした。
アテがある訳ではない。
ただただ、じっとしている事が出来なくて、衝動的に走り出していたのであった。
 昇降口まで戻ってきた唯。
靴箱にもたれかかるようにして息を整える。
(どうすんの!?どこで!?)
(職員用!?体育館横!?)
(ダメッ、どっちも遠すぎる!!)
(2階のトイレは!?)
(ダメッ、もう階段なんてあがれないっ!)
(中庭でやっちゃう!?)
(ダメダメッ、誰かに見られちゃうぅ!)
(クラブボックスは!?)
(あああ・・鍵が掛かってるよぉっ!)
(地下通路は!?)
(ダメッ、誰か来ちゃう!!)
わすか数秒にも満たないその瞬間に、由衣は自分に問いかけと否定を繰り返し、左手で押さえたままその場にしゃがみ込んでいった。
(いや!いや!絶対イヤッ!!)
いま力を抜いたら楽になれる・・それは唯にもわかっている。
しかしそれが出来ないから、これほど苦しんでいる。
今は誰もいなくても、昼食を終えた生徒がグラウンドに出ようとやってくるかもしれない。
そうなったらもう、この学校には来られない。
思春期の唯は、そう考えるだけで恐怖が走り、涙が溢れてくしゃくしゃになった顔をしかめ、最大級の波をこらえて肩をふるわせていた。
(・・もう・・)
靴箱にすがるようにして、ゆっくりと立ち上がった唯。
もう走る事は出来なくなっており、よろけるように一歩ずつ足を差し出しながら、先ほどのトイレとは反対の方向へ向かった。
 こちら側は使われていない教室などが並び、生徒は用事があるとき以外は使わない一角になっていた。
その一番手前の空き教室の扉は、ほとんど力が入っていない唯の腕でも簡単に開いた。
そこは締め切っているために空気がよどみ、かび臭いにおいが立ちこめて、机やイスが雑然と置かれ、まさに物置同然の光景であった。
 唯は誰かに見られているかどうかの確認をする余裕もなく、それでも出来るだけそっと扉を閉め、
「いいよね?、もういいよね?」
誰に尋ねるでもない独り言を口走りながら、扉から2〜3歩前に出て、足をくねらせながらパンツに手をかけ、サッと引き下ろしながらその場にしゃがみ込んだ。
ジュイィー・・という音がして、唯がずっと我慢していたおしっこが、やっとその行き場ができたと大喜びしているかのように、左右に道筋を揺らしながら飛び出していき、唯から3メートルほども離れた所にまで散って、そこに置かれている机やイスの脚にまで飛沫がかかっていた。
静かな教室に、唯の体から飛び出してくるおしっこの音と、それが床に当たり跳ねる音だけが響いて、
「ごめんなさい・・ごめんなさい・・」
唯は誰に言うでもなく、その流れを見つめながらずっと謝っていた。

 誰も教室に入ってくる者はなかった。
ポケットティッシュを持っていなかった唯は、ハンカチで後始末をし、大急ぎでそばにあったモップを取り出し、たった今自分の体からあふれ出したばかりのおしっこを拭き始めた。
が、かなりの量であったのか、1本のモップでは拭ききれず、かえって床に引き延ばす事になってしまって、どうすることもできなくなった唯は、それ以上の作業をあきらめた。
(どうか・・誰にも見つかりませんように!)
そう祈りながらそっと扉を開け、周囲の様子をうかがい、誰もいないことを確認すると、何事もなかったかのように扉を閉め、昇降口に脱ぎっぱなしにしていたシューズをしまい込んで、画板を持って自分の教室に戻って行った。
 すでにクラスは昼食が始まっていてにぎやかで、誰も唯が遅れて入ってきたことを不振に思う者はいないようであった。
それでも唯は、もし誰かにあれを見つけられたら!、私だとバレたら!!と、心穏やかにはなれなくて、食事もほとんどノドを通らず、午後の授業も上の空で受けていた。
 数日が経っても、だれかが空き教室でおしっこした!という噂も流れず、教師からそれらしい話も全く出ず、ハラハラした毎日は次第に薄れていって、いつしか唯自身もその事を忘れてしまった。
(そんなことも・・あったっけなあ・・?)


つづく

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